守谷の歴史を学ぶために、「大地を拓いた女たち ~満州開拓から近代農業に行き着いて~」を読みました

守谷の歴史を学ぶために、1991年に発行された石原八重子著「大地を拓いた女たち ~満州開拓から近代農業に行き着いて~」を大八州開拓農業組合からお借りして、読みました

前回の記事『守谷の歴史を学ぶために、「大地を拓いた女たち」 を大八州開拓農業組合からお借りしました。』では、なんで僕がこの本をお借りしたのかとかを書いたので、今回はこの本の内容の紹介をさせて頂こうと思います。

大地を拓いた女たち ~満州開拓から近代農業に行き着いて~

昭和4年の世界恐慌によるお米の価格の下落、昭和6年、9年の冷害による大凶作により、山形県や長野県の寒冷地の農村は食べていくのに困るようになってきました。

この頃に、学校にお弁当を持ってこれない生徒の事を「欠食児童」と呼ぶようになったんだそうです。

 

当時の日本は中国北東部を満州と呼び、満州開拓を国策として行おうとしていて、山形県や長野県の貧しい農家を中心として、約32万人が満州に渡って行きました。

満州開拓団のうち大八州(おおやしま)を開拓していた方々が大八州開拓団です。

 

満州開拓でかなり苦労されて、やっと目処がついたと思ったら、敗戦を迎えてしまう

終戦直前、開拓団の男たちは殆ど軍に招集されてしまい、残っていたのは老人と女子供ばかりだったのですが、ソ連軍の侵攻してくるというので、昭和20年8月18日から、19日間で約300kmを歩いて逃げました

19日間の避難中、食べ物も殆どないため、母乳も出なくなり赤ちゃんが亡くなったりと、毎日のように人がなくなっていくが、休む暇もなく、ひたすら歩いての避難。

ソ連軍の捕虜になり収容所に入り、1か月後に収容所から開放され、難民生活を過ごしながら帰国命令が出るのを待っていました。

約10ヶ月後の昭和21年7月28日に、舞鶴港に引き上げ船が舞鶴港に入りましたが、引揚者の中にコレラ患者がいたために、やっと日本に帰り着いたと思った矢先に7週間の船中隔離となり、佐世保に上陸出来たのは9月9日の事だったようです。

 

下船後、大八州開拓団は一旦、茨城県東茨城郡下中妻村内原(現内原町)に移動し、しばらく内原で生活することになりました。

大八州開拓団の団長らは、外務省、拓務省へ陳情に周り歩いて、集団入居出来る土地を探しまわったそうです。

なぜ集団入植できる土地を探したかというと、各人が山形の郷里に帰っても、元々貧しい農村なため帰ってからの数日は歓迎されても、段々とお荷物になってしまい肩身の狭い思いをするからで、満州で開拓団として一致団結して開拓をしてきた仲間たちと一緒に入れる場所を探してから、郷里に帰って帰国の報告をすることにしました。

 

昭和21年に北相馬郡菅生村と、大井沢村にまたがる菅生沼に入植することになりました。

当時は利根川、鬼怒川を渡る橋はなく、関東鉄道常総線の小絹駅から1kmあるいたところに鬼怒川の「小絹渡し」があり、そこから渡し船に乗って菅生沼に行ったそうです。

 

堤防工事などの人夫をしながら日銭を稼ぎ、やっとの思いで手に入れた土地を開墾し始め、1年経ったところで、戦後最大の台風と言われるキャサリン台風が来ました

実は菅生沼周辺は遊水地だったため、開墾していた利根川と鬼怒川の合流地点付近の河川敷には濁流が流れ込み、翌日には一面海原のようになり、耕作物は何一つ見えない状態になりました。

開墾用の農具なども全て泥水に埋まり跡形もなくなったそうです。

キャサリン台風だけではなく、大雨が降ったり、大きな台風が来るたびに、耕地が水没し、農作物が全滅するなどを繰り返し、堤防工事が終わるのを待つ

 

昭和30年に堤防工事が終わり、これでやっと水害から免れられると思った矢先ですが

遊水地としての機能をまだ持たされていたので、周囲の堤防より低い越流堤という低い堤防があり、本当に大水が来たときは、また水が流れ込んで来て、農作物が全滅したそうです。

 

現在の菅生沼の南側の開拓地の様子をGoogleマップで表示させてみました

大きな地図で見る

 

この本の中では、農業が近代化されていく様などはあまり多く語られていないのですが、農業だけでなく、養豚が行われたり、乳牛が沢山飼われていて酪農も行われています。

こちらで作られた牛乳が、ミルク工房もりやなどの工場で加工され、私達の食卓を賑わしてくれています。

 

あまり上手に語れなくて申し訳ないのですが、こういったストーリーを知って頂くことで、地域に愛着がわいたり、買うなら地元のものを買おうって思って頂けるのではないかと思いまして、本の紹介をさせてもらいました。 

もし、この記事をご覧になって、「聞き書き大地を拓いた女たち , 満州開拓から近代農業に行き着いて」を読まれたいと思われたら、茨城県図書館情報ネットワークによると、茨城県立図書館と常総市立図書館にはこの本があるようなので、最寄りの図書館で取り寄せて読むことができるはずです。

1991年と比較的新しい本で、文章も読みやすく、内容も興味深いので、すぐに読み終える事ができました。

守谷市中央図書館に蔵書がないのはちょっと残念ですね。

 

出版社の農文協プロダクション(出版当時の社名は新制作社)のHPにある作品紹介ページによると、「大地を拓いた女たち」は自費出版本のようですね。

話は変わりますが、このような部数は売れない良著こそ、電子化して無償配布・閲覧できるようにしたいなーって思います。

もし、権利者の許可が得られるなら、非破壊でスキャンが出来るPFUのScanSnap SV600を使って、PDFファイルにしたいな

 

また、僕にはスキル的にも、金銭的にも出来ないのですが、こういうストーリーを映像化してみたいなとも思っていました。

そこで、茨城県が運営する「いばキラTV」に企画を持ちかけて、 「すっぽん大学 茨城三国志」というバラエティ番組で、大八洲の酪農を取り上げてもらいました。

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こういう露出をすることで、大八洲の歴史に興味を持つ人が少しでも増えたり、守谷のアピールにつながれば良いなと思っています。

 

 

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守谷の歴史を学ぶために、「大地を拓いた女たち」 を大八州開拓農業組合からお借りしました。

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